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2018/03/04

about "I,Photography"by Nobuyoshi Araki

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 現在MIMOCAでは荒木経惟展「私、写真。」が開催されているが、「アラーキー」と聞くと、女性の裸を撮るのが大好きな世俗的なカメラマンというイメージが思い浮かぶのではないだろうか。荒木の写真はそのイメージによって本質が少し見えにくくなっているのかもしれない。   


(以下長文)


 さて、アラーキーこと荒木経惟がどのようにして写真と関わるようになったかについて少し触れておこう。荒木は1940年、東京三ノ輪の下駄屋の息子として産まれた。父親は下駄屋を営む傍ら、趣味が高じて副業に写真館のようなこともやっていたという。小学生の頃から荒木は撮影の手伝いをしており、父親からカメラをもらって写真を撮るようになったのだそうだ。

 荒木は大学在学中から様々なフォトコンテストに応募し、しばしば入選していた。1964年には大学時代から撮りためていた下町の子供達の写真をまとめた「さっちん」が第1回太陽賞を受賞して写真家としての注目を集めるようになる。「さっちん」と太陽賞を争ったのは視覚障がいをもつ子供達をとりあげた「或る生活の記録」と知的障がいをもつ子供をとりあげた「智えおくれの子らと共に」という作品であった。選評には、これら2作品も大変すぐれているが、パセティックであるところ、あまりに泣き所を知りすぎているところに抵抗を感じて「さっちん」を選んだ、というものがある。このころの荒木の作風は現在とは随分かけ離れているように見えるが、表現の為に被写体を利用することを嫌い、「表現」との間に距離をとろうとする荒木の姿勢は、この頃から変わっていないのだ。では、荒木の写真は、写真家としての荒木はその後どのように変わっていったのだろう。

 荒木経惟展「私、写真。」の主な作品は3階に展示されている。入り口のところにはまず「父の死」(1967)「母の死」(1974)という作品が展示されている。「父の死」は亡くなった父親の上半身を真上から撮影した写真。顔はフレームアウトされて写っていない。元気な頃の顔と違っていたから撮りたくなかったということだが、しかし、そもそも日本人のメンタリティとして亡くなった人の写真を撮って公開することは普通なのだろうか?通常、葬儀などで故人の遺骸と対面するのはごく親しい人達だけではないだろうか。一般の参列者は祭壇の遺影を見て故人を偲ぶが、それは元気に生きているときの姿なのである。荒木はそれでも写真家としての覚悟をもって父親の遺骸にシャッターを切った。しかし、日本的なメンタリティもあって顔だけはフレームアウトさせてしまったのではないだろうか。

 荒木は1971年に陽子と結婚し、新婚旅行の様子を赤裸々に撮影した「センチメンタルな旅」は荒木の最も代表的な作品のひとつとなった。死を撮りきれなかった荒木だが、生を産み出す行為については作品として世に出したことになる。もし、荒木と陽子の間に子供が産まれていたならば、この作品はまたさらに違った意味をもつことになったのかもしれない。 

 荒木は1972年に電通を退社しフリーの写真家として活動を始める。19744月に荒木は多木浩二と企画し、篠山紀信、中平卓馬、内藤正敏、深瀬昌久、植田正治、木村伊兵衛らと共に「写真についての写真展」という展示を行っている。この時、木村伊兵衛には作品をポラロイドで撮ってもらっている。荒木はその写真には「面白み」がないと書いているが、同時にそれが木村伊兵衛の写真の中で一番好きな、一番写真を感じるものであったとも書いている。MIMOCAには「インポッシブル」と題されたポラロイド写真による作品が展示されている。ポラロイド社のオランダ工場を引き継いだインポッシブル・プロジェクトのインスタントフィルムはオリジナルとは別もので扱いが難しい。現像がうまくいかずシアンかぶりやマゼンタかぶりしたものもそのまま作品としている。この作品にはお経が撮影されたものが含まれており、それは般若心経あるいは般若経のようにみえる。荒木自身は浄土宗であまり馴染みがないはずなので、これはその葬儀が寛永寺(天台宗)で行われた木村へのオマージュではないだろうか。

 ところで、「アラーキー」というといつでもカメラをもっていて、常にシャッターを切っているようなイメージがあるが、この頃の荒木はいつもカメラを持ち歩いていたわけではなかったようである。浅草の三社祭などに出かけると必ずライカで写真を撮っている木村伊兵衛に出くわすのだが、カメラをもっていない荒木はうしろめたい気持ちで、見つからないように通りすぎようとしたといったことを書いている。

 その木村伊兵衛が1974年の5月に亡くなり、7月に荒木の母が亡くなった。「母の死」と題された写真は父の時と違って顔を写している。亡くなった母親がもっともよく見えるようなアングルを探して撮られている。父親の時には撮れなかった顔を撮ることで荒木は写真家としてのより強い覚悟を示したと言えるが、それでもまだ撮りきれなかったものがあると書いている。19749月の『WORKSHOP』創刊号に初出された「母の死—あるいは家庭写真術入門」という文章は前述した木村伊兵衛とのエピソードを含め、度々再録されているが、それによると荒木は母親の葬儀にカメラを持っておくか悩んだのだそうだ。結局カメラは持たないことにしたのだが、棺の中で花に囲まれた母親の顔や、火葬場まで霊柩車の後ろについていった時の街の景色を撮れなかったことを悔やんでいる。その気持に写真家としての打算がまじっているにせよ、母の死は、卑小な写真家を批評し、糧となったと荒木は書いている。表現の為に被写体を利用しないという荒木の姿勢は被写体を選ばないことによって保証されているのではないだろうか。2000年頃日本の写真シーンで流行した、ある種の非決定的な態度を提示するようなスタイルを荒木が頑なに避け続けている理由は、どのようにして荒木が写真家となったかということと深く関係しているように思える。

 やがて荒木は1980年頃から「天才アラーキー」を自称し、雑誌のグラビアなどで活躍し始める。特に1981年に創刊した「写真時代」は荒木が自在に活躍することのできるステージとなった。この時代にはいくつかの写真雑誌が創刊されているが、篠山紀信のグラビアを目玉にした「写楽」やメイプルソープなどアート系の作家などをいち早く紹介した「PHOTO JAPON」は「写真時代」と並んで日本の写真シーンに大きな影響を与えた。また、この頃に創刊して社会的に大きな影響を与えたメディアとして「FOCUS」をはじめとする写真週刊誌の存在も忘れてはならない。それらはバブルがはじける90年頃までにいずれも廃刊、あるいは極端に部数を減じて形をかえてしまうなどしている。

 1988年子供のいない荒木と陽子の生活に1匹の猫が加わった。1990年に出版された「愛しのチロ」という写真集の中には、陽子が撮影したのであろう荒木とチロの姿も登場し、幸せな生活の様子が垣間見える。しかし巻末近くには陽子が病気で入院したことが記されている。実は1989年の夏、陽子は悪性の子宮肉腫と診断され、荒木がそのことを陽子に告げられない中で「愛しのチロ」はつくられたのである。そして、陽子が亡くなってしまうまでの様子は「センチメンタルな旅」から抜粋された21点の写真とともに「センチメンタルな旅・冬の旅」として写真集になった。そこには母親のときには撮れなかった、棺のなかで花に埋められた陽子、霊柩車のすぐ後の車窓から見る街の風景、あまりにもわずかな骨になって熱風とともに出てきた姿(しかし、この時も最初はカメラを持たずに葬儀に臨んだのだそうだ)などの写真がおさめられている。この作品についてはこれを「お涙商売」と言った篠山紀信との論争が有名である。

 さて、MIMOCAの展示に話を戻そう。展示室を入って左手の壁には「空景」、「遺作 空2」、「死空」、「北乃空」と題された4つの作品が展示されているが、いずれも空を撮ったものである。それぞれの写真が撮影された時期は荒木が身近な死に接した時期と一致している。「空景」は陽子が亡くなった1990年頃。モノクロだと寂しいから彩色したが、かえって何とも言えない様子になってしまったということだ。「遺作 空2」は荒木が前立腺がんがんと診断されて自らの死を意識した1988年頃。写真には生命のエネルギーを感じさせる様々な切り抜きなどがコラージュされて、死からのがれようとする意思を感じる。「死空」は愛猫チロが亡くなった2010年頃。写真の上に『死』という文字がペイントされている。荒木と22年も暮らしたチロが亡くなる様子についても荒木はつぶさに撮影している。徐々に弱り、ついに亡くなり、花に囲まれ、骨になってしまうまで、陽子の時よりも更に真っ直ぐにカメラが向けられている。「チロ愛死」と題された写真集の最後は荒木の暮らすアパート(マンション)のバルコニーから撮った空の写真でしめられている。陽子が子宮肉腫になって以降、荒木はしばしば空を撮影しているが、そんな時三脚の足下にはチロがいることが多かったのだそうだ。そのチロもいなくなり、2011年の大晦日に荒木は1982年以来住み続けたそのアパートを引き払っている。

 「北乃空」は2002年に開始された「日本人ノ顔」プロジェクトに荒木を巻き込んだ和多田進の遺品で撮影された空の写真。FUJI GA645Ziというブローニー版のカメラなのだが、フィルムを横送りする為、普通に構えると縦位置の写真が撮れるのだ。荒木は縦位置の写真は一方の眼で撮った片側の写真であると述べている。その縦の写真を(横位置でとっているものもあるが)隣り合ったカット2枚ひと組で横長にプリントしてある。ちなみに和多田は2016年に亡くなっている。

 空の写真と向かい合うように展示されている作品のひとつが「エロトス」。エロスとタナトスをかけあわせたタイトルである。リングストロボを使って接写することで、そこに写し出された粘膜や植物や水が金属やガラスのように固く見える。本来は蠢いて音や匂いを放っているはずの生きた被写体が写真に写し「止め」られ、固定されて、もはや死んだかのように蠢きも音も匂いも感じられないモノになっている。

「花霊園」と題された作品は1997年に「花淫 さくら」と題した二人展を行うなど、親交のあった丸亀出身の生け花作家 中川幸夫(1918-2012)へのオマージュとして制作されたものだそうだ。異色の生け花作家であった中川の作品は花そのものを見せるのではなく、その写真を撮影して作品としており、その様子も「生け」花と言いながら花が朽ちていく様子をみせるようなもので、荒木の写真にもそのような花の姿が写し出されている。

 最後に奥の壁面には「北斎乃命日」と題された作品。葛飾北斎の命日である418日と荒木の誕生日である(実はロバート・キャパの命日でもある)525日を日付として写し込んだ写真。特別な日付の記されたそこには荒木のいつもの日常があって、おそらく他の日と何ら変わることはない。

 展示室の南側(出入り口側)に展示された作品は生きている荒木が接した、感じた死に関する写真、つまり生から見た死についてのイメージではないだろうか。

 一方北側(奥側)の展示室の作品はそのイメージを反転させたもの、つまり死から見た生のイメージのように思える。熱現像やカビで変質したフィルムをプリントした「死現実」はインパクトが強い。そこに写った本来生命溢れるシーンはフィルムの爛れによって強烈な死の匂いを放っているように見える。だが、それは被写体が放っているものではなく、あくまでもフィルムの爛れによるものなのである。薬剤でシアンかぶりさせた「青ノ時代」は荒木が「写真時代」などで活躍していた、主に1980年代の写真だろう。青く変色していることとフィルム枠が写っていることでやはり被写体との間に介在するフィルムというモノの存在を意識せざるを得ない。「去年ノ夏」には、「空景」、「遺作 空2」、「死空」同様に荒木の筆が加えられているが、こちらは写真の上に色や形をのせて塗り潰すのではなく、塗り重ねた色は下の画面を覆い隠さず、新しく形を付け加えるものでもない。その結果、色ガラスの窓を通して被写体を見ているような感じになっている。レンズを割って青山墓地を撮った「右眼墓地」も、写真ではレンズという(本来)透明な物質が被写体との間に介在することを意識させられる。そして明暗、色の反転したネガ画像を提示した「センチメンタルな京都の夜」と「ネガエロポリス」はいろいろなものが反転するというメタファーであるとも考えられるが、ネガとポジとはまさに表裏一体で、ネガフィルムからポジの印画が産み出されるわけで、「写真」に必須なのに、意識の外に置かれてしまうフィルムの存在を明らかにしている。現代の生命溢れる光景の反転である「ネガエロポリス」が「右眼墓地」で挟まれるように展示されていることもとても象徴的ではないだろうか。これらの作品からは写真のイメージと被写体との間にあって、我々がそれを通してイメージを見ている「モノとしての写真」についても考えさせられる。

 さて、荒木は様々な場面で表現主義と距離をおく姿勢を示している。荒木の写真行為はその目で見たイメージを写すことに拘っており、彼のエッセイなどには日が暮れて暗くなるとあっさり撮影をやめてしまうというエピソードもみかける。ところが長時間露光で街灯りの鮮やかな軌跡が写った「色光線」と「3.11」についてはどうだろう。通常の直裁な荒木の写真に殆ど見られない、まるで表現主義の典型的な作品のようにも見える。しかし、これも荒木の「写真行為」を反転させたものだと考えれば腑に落ちるのではないだろうか。

 もうひとつ、南側と北側の展示室の間に小部屋で仕切られたスペースがあり、「恋人色淫」というヌード写真による作品が展示されている。小部屋の入り口は白いビニールのカーテンで仕切られて、レンタルビデオショップのアダルトコーナーのようである。しかしながら、展示されているのは、その他の作品にもあるヌード写真と、あるいは2階に常設展示されている猪熊の描いた裸婦像と比べても特別に卑猥なものではないように思う。荒木は世俗的なカメラマンという自身のイメージを逆手にとって、写真はそれを見る側によっても意味が与えられてしまうことを示しているのではないだろうか。「卑猥である」という批判をそのまま見る側に突きつけるこの展示には思わずニヤリとさせられてしまう。

 「さっちん」が太陽賞に選出されたとき木村伊兵衛の選評は「ただ、一つ心配なのは、この表現方法がマンネリズムにおちいると、紙芝居的になりはしないかということである。」と締めくくられているが、荒木は紙芝居的になることを恐れず、むしろ紙芝居的になることを避けようとするあまり表現主義に陥ることを避けているのではないだろうか。

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 最後に、展示室の南側には細長い廊下があって、そこに荒木が世に出る前の純情な写真への取り組みであるスケッチブック写真帖が展示されている。「アラーキー」のイメージとは随分かけ離れたそれらには荒木の素直な写真への愛、センチメンタリズムが包み隠されることなくあらわれている。

ちょうど「生」と「死」が表裏一体でお互いを内包しあっているように、荒木と写真が分かち難いつながりをもっていることが「私、写真。」というタイトルに現れているのではないだろうか。荒木の作品については、図書館に用意されている関連図書を読むとより様々な見方ができるのではないかと思う。できれば時間の許す限りそれらにも目を通すことをお勧めしたい。

 


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コメント

ものすごく見に行きたいですが、見に行けないです。
近くでやってくれないかなぁ。
楽しそうな展示ですね~。
荒木さん大好きです。

今回の文章読んでるうちに、仕事なので動画やりますが、
やっぱり写真撮りたくなりました。

小さいカッコいいカメラがあるので頑張りたいと思います。(笑)

投稿: iidacamera | 2018/03/05 23:57

iidacameraさん コメントありがとうございます
人生まるごと写真みたいな感じすごいですよね
そして荒木さん風に言うなら写真は被写体と撮影者との愛だ(間)!
ってことが明らかにされている展示でもあるのですよね(笑)

投稿: bonyaly | 2018/03/06 08:43

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